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生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

もうだいぶ前に読了したんだけど何も認めないのもどうかなと思って備忘録。
この本は、将来研究の道を志す理系学生諸君にぜひ読んでいただきたいですね。
もしくは、普段あまり科学や生命工学に触れることのない文系諸君。研究者がどういう手法で生命科学を探究しているのか、素人にもわかりやすく記されているので一読の価値あり。
肝心の『生物と無生物の“あいだ”』について、あまり触れられていないのでは…

…という疑問は、まあ御愛嬌です(^^;

“そもそも、生物とは何か、皆さんは定義できますか?”
…これは科学的に定義するにせよそこに倫理がからむにせよ、大昔から人間にとって大きな問題だった。そして今のところ科学の分野における生命とは、「自己増殖能を有する」とか「代謝能を有する」とか概ねこんなところが挙げられていると思う。

一方、著者にとって生物と無生物のあいだにあるものとは
“生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。…私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物を識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。”

これを本著の冒頭で述べている。

以下本書の内容を流れを追ってメモする。

■ウイルスは生物か
著者の意見→“ウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在”、“結論を端的に言えば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない。”

DNA研究者たち
ロックフェラー研究所所属・オズワルド・エイブリーはDNAの本体を追及した人物。
先達としてグリフィス(イギリスの研究者):肺炎球菌のS型・R型からDNAについて探りを入れた人物(因みにこの肺炎球菌の実験の概要は高校の生物でも学習するほど有名な内容)

“…直観は研究の現場では負に作用する。”“研究とはきわめて個人的な営み”等、著者の長年の研究生活から得られた見解もちょこちょこ挟んであって面白い。

DNAについての説明やPCR法についてダラダラ読み飛ばす。この辺りは理系研究者から言わせると「わかりきっていてつまらない」。

ポスドクという名の傭兵──“研究は組織の中で行われているように見えるけれど、結局、研究とはきわめて個人的な営みなのだ。”著者のポスドク時代について言及。おもしろいww

ワトソン・クリック・ウィルキンズらによるのDNAの構造・性質解析、その陰にはロザリンド・フランクリンX線解析があった!世間的にはあまり知られていないんじゃないかな?
ロザリンドすごいよね。あの時代にも能力のある女性研究者っていたんですね。

ワトソンらが生命について探究するきっかけとなった著書としてノーベル物理学者エルヴィン・シュレディンガーの『What is Life?(生命とは何か)』(1944)が挙げられている。(あの、「シュレディンガーの猫」で有名な方ですよ・)
“物理学は今後、最も複雑で不可思議な現象の解明に向かうべきである。それは生命である”というコンセプトのものだった。

極めて微小な原子の“平均的なふるまい”によりマクロな生命が秩序正しく維持される。というシュレディンガーの見解はまさに慧眼であった・

■絶え間なく壊される秩序:動的平衡dynamic equilibriumダイナミック・イクイリブリアム

ルドルフ・シェーンハイマーいわく
“生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、成体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。”=秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

動的平衡により、秩序は破壊されながら維持されるという、新しい生命の概念を提唱

そのあと、たんぱく質・細胞・細胞膜のダイナミズム…という流れを経て著者自身の研究内容について言及される。

…とまあ、こんな流れでした。作者の研究内容についてはホント理系諸子くらいじゃないのかなー興味持って読むのは。

地獄変・偸盗 (新潮文庫)

地獄変・偸盗 (新潮文庫)

地獄変』(じごくへん)は、芥川龍之介の短編小説。説話集『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」を基に、芥川が独自にアレンジしたものである。高校課程において本作を扱う学校は多く、芥川の代表的作品の一つ。主人公である良秀の「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」姿勢が、芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられることが多く、発表当時から高い評価を得た。
ウィキペディアから抜粋)

地獄変。高校の教科書にも載っているそうなので知ってる人も多いでしょうけど。
自らの芸術の完成のために、愛娘の命をささげた男の話です。

芥川龍之介って『藝術』の在り方について極めて独特で偏狭な見解をもった作家だよね…
ただの【娯楽】から小説家はじめた夏目漱石(学校でも作家生活においても芥川龍之介の恩師にあたる人)とはぜんっぜん違う!
芥川は自分の人生と命をまるごと芸術にささげた感。身を削って作品を生み出している印象。
しまいにゃ芸術に食いつくされて命を散らす…って書くと聞こえが良いけど
同じく作家の谷崎潤一郎と藝術をめぐって論争したときの意見をきけば「料簡狭いなぁ」と思わざるをえない。
(このへんの経緯については岩波書店から出版されている『文芸的な、余りに文芸的な』を読んでください)

彼にとっての藝術とは、夏目漱石でありボオド・レエルでありチエホフであり
ベッドの上で泣きながら読んだ志賀直哉の『暗夜行路』であったw

地獄変 は、そんな芥川龍之介のフェチズムが詰まっている…ように感じる。
醜怪な良秀、美しく心優しい娘、魑魅魍魎、地獄の業火、泣き叫ぶ女房、虐待される猿、そふとSMごっこ(はぁ?)(←良秀が絵のお弟子さんに対して行った奇行の数々)
きっとこういうものも芥川龍之介のいわゆる藝術とやら、なのかも。
危険…危険  でも嫌いじゃないぜ

本書にはほかにも『偸盗』『竜』『往生絵巻』『藪の中』『六の宮の姫君』など数々の短編が編纂されている。

印象に残ったものだけ内容をまとめておく(備忘録)。

■『偸盗』:今昔物語
これ…すごく面白かった。戯作にすぎることを嫌う芥川龍之介らしくない。スリリングな展開、息をつかせぬ戦闘シーン…!!どろどろの人間関係はヨーロッパの俗な小説みたい。近親相姦とか。
映画や漫画にしたらおもしろいんじゃないかしらん、なんて考えながら読みました。
女だてらに盗賊団の長をつとめる沙金がまたかっこいい!数々の男を翻弄する平安小悪魔ギャルです。大HIT上映中(謎放送)。
…が、作者である芥川さん自身は「いろんなトンマな嘘がある」とか「性格なんぞ支離滅裂だ」とか「安い絵双紙」とか酷評してるみたいですね。ならなぜ書いた??!!

■『藪の中』:今昔物語
“夫の目の前で妻がほかの男に強姦される”シーンを書きたかった芥川さん。とんだアブノーマル野郎だよ。
実はこの話、本当は作家仲間の滝井孝作が書くはずだった物語であったのを、芥川龍之介が手紙で直々にお願いしてネタを譲ってもらったのでした。
物語の構成は最初から最後まで誰かの独白で終わる。まるで推理小説みたいで面白いです。結局最後まで殺人の下手人が不明なのも…読ませる作品でした。

■『六の宮の姫君』:今昔物語
堀辰雄を始めとして芥川の「王朝物」中の白眉として推す人が多い
とあとがきには書いてあったものの、本書の短編中ではいまいち印象が薄い。
幼くして父母と生き別れ没落の一途をたどった儚い姫君の潔い人生…と解説したいところだけど
何かにつけて受動的で生きようとあがかない姫君にどうしてかイラッ…
最後に内記の上人が登場して「極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂だ」と言っているのを見てなんとなく溜飲の下がる思いがした。

浅草紅団・浅草祭 (講談社文芸文庫)

浅草紅団・浅草祭 (講談社文芸文庫)

第一次世界大戦後、ヨーロッパから流入してきた文学界の新思潮の影響を受けて、当時の日本の若き文豪たちは今までにないさまざまな作品を作り出そうと試行錯誤した。川端康成もそういった作家のひとりである。
この『浅草紅団』も新たな時代の流れを汲んだ、川端康成にとっての実験的な作品であると考えられる。
昭和4年11月、浅草の水族館の二階に“カジノ・フォウリィ”が旗揚げされた。そこは
『エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と──』1930年型の浅草を代表していた。川端康成は“カジノ・フォウリィ”の踊り子たちとの交流お通じて浅草の大衆文化を描こうとした。

浅草を跋扈する不良少年・少女グループ“紅団”。
本作品のヒロインである弓子は紅団の首領格の少女。ザンギリ頭のお転婆で、変装が得意で、勝気で男顔負けの気の強さ。
イキイキとしたキャラクターがとっても魅力的vな女の子でした。
男に棄てられて気のふれた姉を持つ。この姉の元恋人に弓子は接触したがる。
そして、弓子と男の『亜ヒ酸の接吻』…。おおお!おもしれええ!!!
と物語がもりあがってきたところで、この小説、休載しちゃったんですねーあれ〜〜(^^;

そのあと…続編はなんだかなあ。しりすぼまりな感じでちょっと退屈でした、
まぁ川端先生はストーリーよりも“浅草の風俗を描くこと”に重点を置いてたみたいなので、こういう小説もアリかな。
川端先生の試行錯誤したあとがありありと見て取れて興味深かったです。
しかし、最初の雰囲気のままで、弓子を中心とした人物たちとのアレコレを最後まで書いてくれたら
きっと『浅草紅団』も『伊豆の踊子』に匹敵するようなすばらしい作品になったと思うんだけどなぁ。。

『……思うままに男の人が好きになれて、そして好きになればなったように出来たら、どんなに世間が楽しいかと思うわ。……私は女じゃないの。姉さんを見たんで子供ん時から、決して女にはなるまいと思ったの。そしたらほんとうに、男っていくじなしね、だれも私を女にしてくれないの。』

がんの温熱免疫療法―ハイパーサーミック・イムノロジー

がんの温熱免疫療法―ハイパーサーミック・イムノロジー

温熱療法(ハイパーサーミア)とは身体を加温することにより様々な疾患を治そうとする方法で、その歴史は旧く古代にまで遡る。
たとえば紀元前400年ごろ、ヒポクラテスも支持したと言われている腫瘍の焼灼法などが知られている。
また、ヒポクラテスが“加温で治らない病は不治の病である”と言っているように昔は身体を温めることで様々な病気を治していたようだ。


最近では、身体を温めることで新陳代謝を高め、ダイエットを効率よくする方法とか、有名ですよねー
コンビニでも生姜を使ったお菓子やらジュースやらが売られて…(ショウガには身体を温める作用のある生薬成分ジンゲロールが含まれる)
体温を低下させないことの重要性がしだいに認知されているようですね。


現代におけるハイパーサーミアの学術的研究が本格的に行われるようになったのはおよそ30年前からで
臨床においてはマイクロ波・ラジオ波・超音波などを用いた加温機による温熱治療がもっぱら行われているようです。


温熱治療における加温温度は、数百℃の高温から41℃のちょい生ぬるい温度まで色々ありますが
ここでは主に41〜43℃あたりの温度(マイルドハイパーサーミア)を利用したがん治療について言及します。



たかだか43℃で、がん細胞が死ぬの?



って言われるかもしれないが、ぶっちゃけ、死にます。
実際に、がん組織に対する局所加温(43℃前後)で治療効果が得られている。
これは、“がん細胞が特に(正常細胞に比べて)温熱に弱い”という性質を利用したものなので
正常細胞に対する傷害性はほぼないため、患者さんにとっては安心安全な治療法でしょうね。


だって…がん治療における現時点での“標準治療”って
抗がん剤漬けになって苦しい闘病生活を送んなきゃいけない『化学療法』トカ
一歩間違えればショック死する可能性もある『放射線治療』とか。とても安全とは言い難い。
それに比べると温熱治療は、ぬるい程度の温度で局所を温めるだけなので、簡便かつ安全かつイタくない♪
とても素敵な治療法だと思います。。


本書では、温熱療法と免疫系の関与についての基礎研究結果、または温熱療法と免疫療法の併用によるがん治療効果について書かれています。
(※症例集というよりも、温熱によって誘導される免疫のメカニズムの解析が多いから、基礎研究の方にお勧めかも?)



肝局所に対しラジオ波を用いた温熱治療を行ったところ、全身性の免疫誘導が起こったとの報告があり、局所加温でも一時的に生体内の免疫系を活性化できるそうな。(すごいなー)
また、温熱治療した腫瘍組織に、抗原提示細胞である樹状細胞を投与することで、強力な腫瘍増殖抑制効果が得られたことなども報告されており、温熱療法と免疫療法の併用が有効な治療法となりうることが示唆されている。


これらの事実により、身体を温める“温熱”と、がん細胞に対抗する“免疫”力のアップで
効果的にがんを治せるかもしれないという新たな治療戦略が提唱されているようです。




※私の所属している研究室では、in vivoにおいて腫瘍を移植したマウスに温熱治療を施すことでがん細胞特異的な細胞性免疫系を誘導可能であることが証明されています。




あたためることは偉大なのですネ。身体ひやさないようにしなきゃね!!

そしてワタクシ、ただいま生姜紅茶ダイエットを実践中なのであります。
うぐぐ。身体ポカポカにはなるけど、おなかすくのは我慢するしかないのね。。

ワイマルのロッテ (上) (岩波文庫)

ワイマルのロッテ (上) (岩波文庫)

「わたしと山とのあいだには、古い貸し借りが清算されずにのこっていますから、わたしがこちらへ参ったのは、そのためかも知れないことは否定しようとは思いませんの、昔の清算されていない勘定、心を苦しめる勘定のためかも知れないことは…」

ある日ワイマルの旅館エレファントを、品のよい年配の淑女が訪れた。実は彼女こそ『若きウェルテルの悩み』の悲恋の相手、ロッテの44年後の姿であった。彼女は(一応ワイマルに嫁いだ妹を訪ねるという目的はあったものの)44年前に別れた詩聖ゲーテ、つまり当時の“ウェルテル”に会うつもりでこの地を訪れたのだった…。

トーマス・マンの晩年の作品。

高校時代に『魔の山』を読んで以来ずっとマン信者なわたくし、この本が書店に見つからなかったため、とうとうAmazon.comという名の密林に
手を出してしまいましたよ…。(今までネット通販て殆どしなかったんです、なんか詐欺とか怖いし)(旧世代の人間)

この作品もはやり、マンっぽいうというか、思想と感性と理念のごちゃまぜ世界。登場人物のせりふ長すぎ!!な点とかトーマス・マンの長編小説らしいですね。登場人物のキャラも立っているし(ドストエフスキー作品ほどじゃないけど)。
この小説、構成要素がほとんど“だれかの台詞”です。よくいえばリズムがあって読みやすい部分もあるけれど悪く言えば飽きる(すみません)し、途中でナンの話してたか忘れてしまいます。ちょくちょく、読み返さないとわからなくなることも^^;

上巻は、旅館に到着してからシャルロッテおばさまのモトを続々と訪れる人たちとの会談が続きます。おばさまお出かけしたいのに来客ばかりで閉口しちゃいます。なんせ当時『若きウェルテル』はドイツ中でベストセラーだったし、女学生は小説のシャルロッテのファッションを真似て洋服にピンクのリボンをあしらったり、「ほんとうのシャルロッテは誰だ!?」と相当話題にもなったようですから、おばさまワイマルで大人気です。
来訪客の中でも特筆すべきは、ゲーテのもとで長年秘書を務めているリーマー氏との会話でしょうか。

リーマーは、ゲーテ自身、または彼の作品や言葉について、
「倫理的でないもの、自然力的で中立的で、悪魔的で混迷したもの、一言で申しますと『妖魔的』なもの──(中略)──つまり、ひろい意味での寛容と圧倒的な忍耐づよさとの世界、善も悪もそれぞれ同等のアイロニカルな権利を持つ世界、目的も理由もない世界」
と、評しています。妖魔的、という言葉を用いていますがこれはゲーテを非難しているのではなく(シャルロッテに対して多少のへりくだりはあるでしょうが)、むしろゲーテのそばにいることで「感覚的な心地よさ」を感じつつも「恐ろしい胸苦しさを不安(アプリヘンション)」を感じていること、その「全体と無との同一性」、つまり矛盾を、指し示すためにゲーテ(と彼の作品)=「妖魔的」であると言っているようです。

そして同時に、妖魔的であるゲーテを「悪魔性は神性の一面」です、と神になぞらえて「神の本質は明らかにすべてを包括するアイロニーです」とまで言っています。
ようするに、リーマーから見たゲーテは悪魔的でもあり同時に神的でもあるようです。リーマーは自分がゲーテの天才性に及ばないことに内心懊悩しつつも、彼のそばで仕事ができることの喜びを謳歌しています。

この会話により詩聖ゲーテの姿が浮き彫りにされていくのです。トーマス・マンはそうとうのゲーテファンなようですが(この作品から2年後に『ファウスト博士』とか書いてるあたりからも察せられる)マンの中での『ゲーテとはなんぞや』を、この小説を書くことによって明確にしたかった模様。

それから、本作品(上巻)中もう一人、特筆すべき人物がいます。それは第四章から登場するショーペンハウアー令嬢(アデーレさん)、この人はゲーテの息子アウグストの嫁の親友(わかりにくっ!)…で、たいへん思慮ぶかく慎み深く理知的な女性です。

彼女の口からも同様にゲーテ像が浮き彫りにされていくのですが、注目すべきは彼女の口から語られたドイツの民族主義と、その批判的言質でした。
「善意と純粋な批判とだけでは十分ではありません。自分の言動が招く結果を見通せる目も持たなくてはならないのです。……その恐ろしいものは、いつかドイツ人のあいだに身の毛のよだつようなあさましい蛮行となって現れるでしょう…。」

世界大戦中亡命していた先で本作品を書いたトーマス・マンが、この作品を通して当時のドイツ民族主義とその指導者であったヒトラー
痛烈に皮肉っているのが伺えるようです。。

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)

“天の利、地の利によって起つことがあるが、このたびは人[西郷]によって起つ”

いよいよ西南戦争の勃発。
西郷隆盛暗殺(疑惑)の件を問いただすべく北上しようとする私学校党(桐野利秋篠原国幹など元陸軍の要人ら)は軍を編成。
これに対し政府陸軍は熊本鎮台の牙城とする熊本城に続々と兵を送り込む。

難攻不落の熊本城にかかりっきりになり薩軍は次第に不利な戦況になっていく。対する鎮台兵は大阪から次々に補給される潤沢な武器・弾薬を駆使しこれを攻め込む。さらに九州の地にて陸軍の総指揮をするべく陸軍卿・山縣有朋が福岡に入る(海軍からは川村純義が参軍)。

とまぁ怒涛の勢いで戦況が展開、比較的はじめの戦闘から政府軍の有利な状況でコトが進んでいったようです。
高瀬の会戦では菊池川を挟んでの戦いとなりましたが、中央隊を請け負った篠原国幹が弾丸の欠乏を理由に戦線を離脱するという無茶ぶりを発揮したり。それでも、桐野と参戦した宮崎八郎率いる民権党(協同隊)の吶喊(とっかん)で政府軍もタジタジ…することもあり。いかにもな戦争ドラマが展開されてゆきます。

勇将はいても名将がいない薩軍に対し、政府軍には児玉源太郎や川上操六など天才参謀がいる。これはもう…勝負の結果は明らかですね。

“天の利、地の利によって起つことがあるが、このたびは人[西郷]によって起つ”と言った桐野の言葉が、近代戦争における薩軍の未熟さを露呈しているかのよう。