ワイマルのロッテ (上) (岩波文庫)

ワイマルのロッテ (上) (岩波文庫)

「わたしと山とのあいだには、古い貸し借りが清算されずにのこっていますから、わたしがこちらへ参ったのは、そのためかも知れないことは否定しようとは思いませんの、昔の清算されていない勘定、心を苦しめる勘定のためかも知れないことは…」

ある日ワイマルの旅館エレファントを、品のよい年配の淑女が訪れた。実は彼女こそ『若きウェルテルの悩み』の悲恋の相手、ロッテの44年後の姿であった。彼女は(一応ワイマルに嫁いだ妹を訪ねるという目的はあったものの)44年前に別れた詩聖ゲーテ、つまり当時の“ウェルテル”に会うつもりでこの地を訪れたのだった…。

トーマス・マンの晩年の作品。

高校時代に『魔の山』を読んで以来ずっとマン信者なわたくし、この本が書店に見つからなかったため、とうとうAmazon.comという名の密林に
手を出してしまいましたよ…。(今までネット通販て殆どしなかったんです、なんか詐欺とか怖いし)(旧世代の人間)

この作品もはやり、マンっぽいうというか、思想と感性と理念のごちゃまぜ世界。登場人物のせりふ長すぎ!!な点とかトーマス・マンの長編小説らしいですね。登場人物のキャラも立っているし(ドストエフスキー作品ほどじゃないけど)。
この小説、構成要素がほとんど“だれかの台詞”です。よくいえばリズムがあって読みやすい部分もあるけれど悪く言えば飽きる(すみません)し、途中でナンの話してたか忘れてしまいます。ちょくちょく、読み返さないとわからなくなることも^^;

上巻は、旅館に到着してからシャルロッテおばさまのモトを続々と訪れる人たちとの会談が続きます。おばさまお出かけしたいのに来客ばかりで閉口しちゃいます。なんせ当時『若きウェルテル』はドイツ中でベストセラーだったし、女学生は小説のシャルロッテのファッションを真似て洋服にピンクのリボンをあしらったり、「ほんとうのシャルロッテは誰だ!?」と相当話題にもなったようですから、おばさまワイマルで大人気です。
来訪客の中でも特筆すべきは、ゲーテのもとで長年秘書を務めているリーマー氏との会話でしょうか。

リーマーは、ゲーテ自身、または彼の作品や言葉について、
「倫理的でないもの、自然力的で中立的で、悪魔的で混迷したもの、一言で申しますと『妖魔的』なもの──(中略)──つまり、ひろい意味での寛容と圧倒的な忍耐づよさとの世界、善も悪もそれぞれ同等のアイロニカルな権利を持つ世界、目的も理由もない世界」
と、評しています。妖魔的、という言葉を用いていますがこれはゲーテを非難しているのではなく(シャルロッテに対して多少のへりくだりはあるでしょうが)、むしろゲーテのそばにいることで「感覚的な心地よさ」を感じつつも「恐ろしい胸苦しさを不安(アプリヘンション)」を感じていること、その「全体と無との同一性」、つまり矛盾を、指し示すためにゲーテ(と彼の作品)=「妖魔的」であると言っているようです。

そして同時に、妖魔的であるゲーテを「悪魔性は神性の一面」です、と神になぞらえて「神の本質は明らかにすべてを包括するアイロニーです」とまで言っています。
ようするに、リーマーから見たゲーテは悪魔的でもあり同時に神的でもあるようです。リーマーは自分がゲーテの天才性に及ばないことに内心懊悩しつつも、彼のそばで仕事ができることの喜びを謳歌しています。

この会話により詩聖ゲーテの姿が浮き彫りにされていくのです。トーマス・マンはそうとうのゲーテファンなようですが(この作品から2年後に『ファウスト博士』とか書いてるあたりからも察せられる)マンの中での『ゲーテとはなんぞや』を、この小説を書くことによって明確にしたかった模様。

それから、本作品(上巻)中もう一人、特筆すべき人物がいます。それは第四章から登場するショーペンハウアー令嬢(アデーレさん)、この人はゲーテの息子アウグストの嫁の親友(わかりにくっ!)…で、たいへん思慮ぶかく慎み深く理知的な女性です。

彼女の口からも同様にゲーテ像が浮き彫りにされていくのですが、注目すべきは彼女の口から語られたドイツの民族主義と、その批判的言質でした。
「善意と純粋な批判とだけでは十分ではありません。自分の言動が招く結果を見通せる目も持たなくてはならないのです。……その恐ろしいものは、いつかドイツ人のあいだに身の毛のよだつようなあさましい蛮行となって現れるでしょう…。」

世界大戦中亡命していた先で本作品を書いたトーマス・マンが、この作品を通して当時のドイツ民族主義とその指導者であったヒトラー
痛烈に皮肉っているのが伺えるようです。。