歴史哲学者(客観的分析を要する)がクリスチャンの場合、キリストの存在をどう解釈するのか?☆彡

アウグストゥスイエス・キリストを巡る不思議な因縁を神秘的に綴ったプロローグ〜果たしてどちらが真の救世主か〜から始まり、一転してローマの歴史、共和制から帝政への移行、その支配と属州国の隷属の実態を語り明かす。また、ユダヤの歴史とそれを導入にイエス・キリストの降臨、キリスト教ローマ帝国との関連を分析する。

プロローグから少し違和感を覚えた。というのは、著者が「キリストの起した奇蹟」を暗黙に肯定したうえで「歴史」という既成事実を語ってる…これは本当に、学問の本なの?

それについては弓削先生があとでこう書かれていた。

さて、歴史家は空想や想像によって歴史を書くのではない。事件を直接に見た人の証言とか、その証言をもとにしたいい伝えや文章、あるいは事件の当事者のことばや書いたものを材料にし、それを「史料」として事件の経過や関連や意味をあきらかにするのが歴史家の仕事である。・・・(中略)・・・
 そうした批判的検討にあたって、しばしばひじょうに有効な機能を果たす基準がある。それは、ある事実を事実として認めることが不利であるような立場にある人びとが、その事実を事実として認めるか暗黙の前提にしているばあい、あるいは積極的に否定していないばあい、われわれはその事実を疑いえない事実として考えてもよい、という基準である。
 これまでイエスの生涯を書くにあたっても、このような基準にしたがって書いてきた。そこには、ラザロの復活のような今日の自然科学的な常識には説明しにくい事件があったが、それらのいわゆる奇蹟にしても、敵もまたそれが事実であることを認め、その事実性の承認のうえにたってつぎの行動を起こしているかぎり、それらのいわゆる奇蹟に説明や証明を加えることなく、そのまま単純な事実として記してきた。

はあ。なるほどそういうことだったんですね。疑問が氷解しましたよ。しかし先生のような、「歴史学者」であり同時にまた「信者」である人だと、常人のように歴史を分析するさいにより一層の注意が必要なのでしょう。

コンスタンティヌスによってキリスト教は晴れて国教となりましたが、その過程でキリスト教はたくさんの憂き目をみました。迫害という憂き目を。そのために殉教した人も大勢いたわけですが、「少数の弱い立場の人々は結託が強い」という事、しかも彼らは「信仰」という信念によって結ばれている事によって度重なる迫害…何百年も続けられた弾圧にも伏することなく、その教えを属州含むローマ帝国全土へと広めていったのでした。
行き場のない、よりどころのない、将来の不安におびえる、許されるはずのない罪を背負った、虐げられた人々がローマに多かった所為でもあると思うんですけど。キリスト教って…そういう人々にとって限りない魅力ですよね。

しかしキリスト教も、イエスの生きていたころからさまざまな進化をとげ、形態を変えていった。それはキリスト教がより「生きやすい」ように順応したと言っていいかもしれません。弾圧や迫害を受けないための防衛策を立てるという意味で。はじめ(イエスのころ)キリスト教ユダヤ或いはローマ帝国の上層部に対して反抗的だった。権力に屈さず、神というただひとつのものを「真理」とし、それを信じるのがキリスト教だった。
…これは、帝国を支配する者としては非常に危険。ローマにいた神々を崇め供犠に参加することで神から(帝国の繁栄という)恩恵を受ける、つまり「供犠」と「恩恵」の等価交換がこの時代の宗教のあり方だったけれど、キリスト教徒はローマの神々のために、皇帝のために、帝国繁栄のために祈らないでしょう。
というわけで危険分子とみなされて迫害されるんだけど、いつのまにか信者がいっぱいいすぎ状態で弾圧さえままならず、キリスト教はスキを見て順応すべく姿を変えていきついに「マクセンティウスを倒せたのはキリストのおかげだ!」と大勘違いしたコンスタンティヌス帝によって国教と定められたのだった。。ということ?
つまり最終的にはキリスト教も、帝国の繁栄・皇帝の永続性のために祈るようになったのですね。

ところで、皇帝礼拝が、今日の目からみるならば宗教的な信仰告白を要求するものとはいえないといっても、イエスにおいてあらわされた神の意志にのみしたがおうとするキリスト教徒が、皇帝礼拝のなかに異教的信仰告白の要求を読みとったとしても、それは無理からぬことであった。それは1945年までの日本の国家神道が、客観的には、天皇権力のイデオロギー的な支柱にほかならなかったとしても、それを強要された人びとには、宗教的信仰告白の強要とうけとられたのとまったく同様であった。

ローマ帝国大日本帝国、軍事力で他国を制する帝国主義国家は、皇帝にしろ天皇にしろ、頂上に立つものを神の次に神聖なもの、或いは神と同一のものと見なし、信仰することで国の統一をはかるというスタイルは古代も現代も、いつの時代であっても変わらないようです。